熊谷うちわ祭りは、京都八坂神社の祇園まつりが夏祭りとして、全国に広まった祭りの
 流れのひとつです。
 平安時代「エキリ」と呼ばれる伝染病が流行したとき、疫病退散の祈願を行った
 祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が祇園祭の起こりとされています。
 熊谷には文禄年間(1592年頃)京都の八坂神社を勧請し、その後愛宕神社に
 合祀されました。
 熊谷の夏祭りが文書として残っているのは、江戸時代・1750年で、これによると町民から役人へ
 「夏祭りを各町内一斉に行うように」と願い出され、それが許可され、この頃から現在の
 うちわ祭りのような形態の基が作られたとされています。

  1830年頃から、熊谷の祭は一層にぎやかになりだし、そしてまた江戸時代の多くの祭りが
 そうであったように、赤い色が厄除けになるという理由から、商店では買い物したお客に
 赤飯を振るまっていたとされています。
 赤飯の振る舞いは、熊谷の名物になっていきました。
 うちわ祭りという名前が付いたのはこの後のことで、泉屋横町の「泉州」という料亭
 (今の筑波と本町の境付近)が、手間の掛かる赤飯の代わりに、江戸から買い入れた
 渋うちわ、日本橋の老舗の「伊場仙」製の渋うちわを、買い物をしたお客に振るまったところ
 大変評判となり、他の商店でも赤飯の代わりに、うちわを振る舞うようになったそうです。
 当時はうちわが生活必需品ということもあり3銭の買い物をして5銭のうちわを振る舞った
 ことから、それはたいへんな評判になりました。
 そして、「買物は熊谷のうちわ祭の日」と誰と云う事無く言われるようになりました。
 このころから、うちわ祭りと呼ばれるようになったそうです。

  現在でも、うちわ祭りには団扇は欠かせないもので、祭り期間中には、現在のお祭り広場
 お仮屋(おかりや)でお参りをすると、うちわが振る舞われます。
 また、市内の商店でも買物をすると、今でもうちわが振る舞われています。
 そして、時代の流れにつれ、疫病退散の祭からいつしか、五穀豊穣・商売繁盛の祭と
 変わっていきました。
 その後、明治24年、本町三四の菓子店、中家堂の初代中村藤吉氏が、江戸の神田に
 あった紺屋という個人所有する山車を当時のお金でいう500円を出し、山車を買い受け
 熊谷に持ち帰ったとのことです。
 これより明治後期に本町一二、筑波区、鎌倉区、仲町区も相次いで山車、屋台を製作し、
 いっきに祭りの士気が高まって、熊谷の祇園祭は山車祭へと変わっていきました。

 そして、昭和8年以降に現在のような祭りになりました。
 
  昔から祭りに参加していた五ヶ町(現在の第壱本町区、第弐二本町区、筑波区、
 仲町区、鎌倉区)と、それ以後祭りに参加した銀座区、弥生町区、荒川区を併せた
 八ヶ町での祭りと石原村(現在の石原区と本石区)の八坂神社の祭りを統合して、
 現在のように7月20日から22日となりました。
 しかし、この祭りも戦時中は一時中断されていました。
 終戦前夜には日本で最後の戦災を受けた熊谷は東西に渡って焼失し、この時、民家の蔵に
 保存されていた昔の祭りの様子を知る記録や、重さ200貫もあった立派な神輿や鎌倉区の
 屋台などの祭りに貴重な財産までも焼失してしまいました。
 そして、早い復興の中、翌昭和21年には、市内本町の四つ角に仮殿を建て祭神を遷座して、
 形ばかりではありましたが、祭りは少しずつ復活し始めました。

  戦後の街は活気をなくして、人々は暗く沈んでいたので、うちわ祭りも昔のような華やかな
 山車や屋台が出るお祭りではありませんでした。

 うちわ祭りの灯を絶やさぬようにと、これを見かねた弥生町区の旦那衆たちが戦後はじめて
 弥生町区の屋台を出しました。
 翌年、それを待っていたかのように、次々に山車や屋台が町中に出始め、人々も熊谷の町も
 活気を取り戻していったそうです。
 
  そして、現在の熊谷うちわ祭りになりました。



                    
  


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